赤部村と真慧さんの大飯

 

 

真宗高田本山専修寺中興の祖 真慧上人の物語

 真慧(しんね)上人は高田本山の第十世で、時代背景は室町中期~後期、応仁、文明の乱が起こる戦乱の下克上の世でした。

 

 三重県津市一身田では 高田本山の第十世を 中興(ちゅうこう)さん と呼ばれています。

 実は、先代の第九世までは 高田本山は栃木県にありました。

 

 この真慧上人は室町後期に高田本山を栃木県から現在の三重県に移されるという大事業を成し遂げたのです。

また、 本願寺中興の祖といわれる蓮如とは親交があったが、加賀と越前で一向一揆が起こり、高田門徒は本願寺門徒と戦ったそうです。

 

 天台宗西教寺(比叡山近くの坂本)の中興の祖と言われる真盛とも親交が深く、宗派は違えども真慧の分骨した墓が西教寺にあるそうです。

 

 真盛は津市一志町大仰の出生です。

 後に、織田信長による比叡山焼き討ち後、坂本城主になった明智光秀は災禍にあったこの天台宗西教寺を復興しました。

 その西教寺には光秀の墓もあります。

 

もっと詳しく! 時代背景などの詳細はこちらです→「真慧背景」

 

赤部村に伝わるお話

 

《真慧さんの大飯》

*真慧(しんね)上人  真宗高田派専修寺 第10代法主  

*赤部村 三重県津市河芸町黒田地区

*参考文献等後述

 

室町時代の寛正年間(1450~1466)、下野国高田(現 栃木県芳賀郡二宮町)の真慧上人は、北勢地方から真宗の教化をしていった。

 一身田に専修寺が出来る前後は、北勢や鈴鹿は布教活動がもっともさかんに行われたところであり、そのために一身田との往来は多くなっていた。

当時はまだ街道らしきものもなく、曲がりくねった田んぼ道や細い山道を歩いて、村々をたどっていったのである。

ある日、朝早く北勢を出発した上人の一行は、久知野から七曲をとおって、赤部の念仏道場(法蔵寺)へ夕方ついた。

上人も他の者もたいへん疲れていた。

供をしてきた北黒田の誓祐(浄光寺)のはからいで、さっそく赤部の人たちに食事の用意をしてもらった。

上人の一行は信者の人々の心からのお迎えに、疲れも忘れやっと落ち着いた気分になった。

朝からろくに食事もとらずに歩き続けたので、にわかに空腹を感じた。

食べ始めたら、あまりのおいしさに、山盛りのご飯を一気に食べてしまった。

そして、ごはんのおかわりを何杯もするので、給仕の人やみていた人たちはびっくりした。

また、人々は、「上人さんが、とてもうまそうにたくさん食べられた。」と喜んだのであった。

その後、赤部の人々は、真慧上人をしのんで、毎年上人の命日に法要を営んだ。

その時、上人が使われたお椀にごはんを山のように盛って仏前に供え、自分たちも、「真慧さんの大飯」といって、山盛りのごはんを食べていたのである。

「真慧さんの大飯」茶椀が今も浄光寺に残っている。

この行事は大正年間まで続いた。

 

これが今も浄光寺に伝わる真慧さんの椀

およそ550年前

 

浄光寺についてはこちらから→〔浄光寺〕

隅切り膳に汁椀とお皿が一組として保存されています。

浄光寺は由緒あるお寺。

鎌倉時代は真言宗の中本山という位置づけ。

真慧を助け功績を残した誓祐のことが記されている。

この物語から赤部焼の茶椀を作りました。詳しくは写真又はこちら〔茶椀〕をクリック

参考文献

 

河芸町郷土研究会「河芸町郷土史」河芸町教育委員会1978年

「河芸伝承」河芸町教育委員会1994年

瓜生津隆真、細川行信「真宗小事典」法蔵館、2002年

早島境正、田中教照「お経 浄土真宗」講談社、2006年

 

以上、平成24年1月15日河芸町赤部区 長井区長の調査を参考

他、wikipedia などネット上から情報を収集して掲載しました

赤部村のこと

 

【土塀玉】どべだま

 

毎年1月15日に、津市の一身田のお七夜(親鸞聖人のお通夜)にあわせて、赤部でも土塀玉報恩講を行う。

これは、年番制の当番の宿(2軒)で味ご飯を炊き、それを紅白の玉のようにして、お通夜の後、子供たちも参加していただくという行事である。

この味ご飯を紅白の玉のように握ったものを「土塀玉」という。

この名称そのものの由来は、昔は蔵を建てるとき、壁を特に厚くするため、玉にした壁土を荒壁にむかって投げつけるという習慣があり、その壁土の玉になぞらえて、味ご飯を丸く握ったものを「土塀玉」というようになったのだという。

 

土塀玉報恩講は、夜の8時頃から行われ、9時半ごろに土塀玉が出て、赤部中の人がいただく。

味ご飯は、八升なべを使用し、薪で炊く。

今も、赤部法蔵寺には、直径1mくらいの土塀玉専用のおひつが2つあり、お寺で更に直径30cmくらいのちいさなおひつ4つほどに分け、お皿に入れていただくということである。

この行事は平成11年まで続いた。

現在は袋入りの茶菓子に変わっている。

  

【入相の鐘】にゅうしょうのかね

 

 法蔵寺では、かつて入相の鐘を撞いていた。

これは今より約170年前の文化2年(1804)にはじまったもので、地域の人々に時刻や日没後、夕食の準備など暮らしの指針として、同寺の住職、奥方が毎日の日没時を新聞で調べ、その時刻に「入相の鐘」として撞いたものである。

当時としては、地域住民の暮らしの目安になり役立ったものである。

鐘は二代目で、初代は昭和19年に戦争のため供出され、一時は絶えていたが、区民の要望によって昭和23年に二代目の鐘ができて復活したが、現在は無住職となって入相の鐘は撞かれていない。

鐘は、小槌形のかねつきで20回撞くのである。

 

 

 

【浄光寺】じょうこうじ

 

鎌倉時代の真言宗の中本山として、七堂伽藍を擁していたが、創建年代は不詳である。

一身田に高田本山専修寺が移転した時、多くの末寺と共に改宗して今日に至っている。

このときの開基誓裕上人は、源氏宇多天皇の後胤、佐々木近江守源高昌の嫡男である。

永享の乱(1439)によって、高昌の鎌倉方は敗退したので、祖のとき5歳の松千代は士卒と共に逃れ浄光寺に入って成人出家し誓裕と名乗り、高田本山の寺基移転に真慧上人を助け中興の偉業達成に尽力した。

浄光寺の本尊は、真慧上人より授与されたという記録がある。